ソフトボール審判かけだし
仙台市宮城野区ソフトボール協会 会長 荒井 正勝
1965年(昭和40年)5月30日,ソフトボールアンパイヤー第3種合格。大学卒業と共に私の審判人生が始まった。
教育実習生として,母校鬼首中学校で部活動補助活動し,翌年は,真山中学校講師として赴任し,部活動顧問を命ぜられた。
しかし,この部は,創部以来,公式試合での勝利の経験はなく,部員は「負けの真山が私たちの伝統です?」と言う。
負けず嫌いの若造教師の私は,そんな言葉を明るく平気で口にする部員を悲しく哀れにさえ思った。
10名の部員を説得して「悪しき伝統を破ろう!」と誓った。
当時の選手ユニフォームは,体操着に背番号を縫い付け,監督のユニフォームはなくてもよかった。
「先生!郡で準優勝しました。」との報告を耳にしたのは,すでに第2の赴任先,中新田中学校講師に転任した翌年5月だった。
その間,野球,ソフトボールの先輩の先生方を尋ね,ルールや実技指導法を教えていただいた。真山中学校は廃校となった。
当時書店にあった球技の本は,旺文社の「スポーツ教本」ソフトボールに関する専門書は,体育図書館シリーズ「ソフトボール」下奥信也(のぶや)著だけであった。公認野球規則も役立った。
教師としての教材調べと同じくらい,これらのスポーツルール,実技教本に目を通した。単なる根性論やしごきだけで,良いチーム作り,選手育ては出来ないと思ったからだ。
全軟野球,社会人野球,ソフトボールと審判資格を取得し,盆,正月,シーズンオフもないほどの忙しさで,良い家庭人ではなかった。
自己満足だが,失敗の許されない緊張感の中に身を置くことは,グータラな自分の性格改善の場でもあった。
古川中,小牛田中を経て教諭となり遠田郡涌谷中学校野球部監督を命ぜられた。
涌谷中での3年間は,私の以後の審判員生活を決定づける日々だった。野球部員の保護者・家族の中には,高野連のベテラン審判員・監督・高校女子ハンドボールでの全国優勝をした監督がいた。私の放課後の部活動指導,練習試合の審判には,常に注目の視線が光っていて重圧を感じたものだった。
中でも,審判員としての厳しくも,温かい助言を頂いた2人の師がいた。
一人は,アルミ合金製のホフマン式マスクを愛用する高野連のベテラン審判員鎌田勝治氏で,巨人軍川上哲治監督と文通をしている間柄の方であった。晩年まで元西公園の野球場で審判員をつとめられ,野球指導の「いろは」を教わった。
「野球は一人ではできない。チームメイトを大切にし相手チームを敬い,常に全力プレーを心掛けることだ。」と言う。
もう一人の恩人は,教師としてもソフトボールの審判員としても自分の師と仰ぐ,阿部桂(かつら)先生だ。
宮城県ソフトボール審判員の草分けで,県協会,県中体連の歴史に残るあこがれの指導者であった。
当時の球審は,アウトサイドプロテクターを使用していたが,クロスプレーの判定時,いかに素早く良い位置に動くか,マスク・プロテクターをはずして判定姿勢を取るか,ジェスチャー,コールのタイミング・・・・等々。
練習試合などでどんなに頑張ってもなかなか合格点はもらえなかった。それだけ奥の深い仕事だと教えていただいた。
昭和47年,そんな私を「推薦するから1種受験に挑戦して来なさい。」と送りだして下さったのも桂先生だった。
「教員なんだから筆記試験で不合格になるな。」とプレッシャーもかかった。
幸いにして47年5月9日,第1種合格,赤バッチを手にした。
合格間もなく,実業団の大会審判にもお呼びがかかったり,当時,全国優勝をした櫻井・菊池バッテリーを有する自衛隊仙台の球審を経験させていただいたりした。
昭和48年,私は,仙台市協会に所属し,現在の5区合併前の泉市八乙女中学校に転勤した。
泉市には数多くの町内会チームがあったが,公認審判員は一人もいなく,泉区ソフトボール協会の設立に全力を尽くした。
5年後,南光台中学校に転勤となったが,区大会9年連続優勝を遂げたことは自信になった。
審判員としての役割は,仙台市審判部長を命ぜられ,県内に3種審判員を増員すること,合わせてスローピッチルールの普及に努めることが,私に課せられた仕事だった。
3種認定試験問題は,自作でガリ版り。土曜午後は,ルール解説と筆記試験,日曜は実技指導とテスト。採点結果に基づいて面接。
県内は,白石から志津川まで,認定の旅をくりかえした。
私の審判人生も,終着駅が近くなったように思う。
これまで辛かったこと,楽しかったこと,過去の失敗の数々を振り返りつつ,お世話になった同志の顔を思い浮かべながら,感謝の意を表わしたい。